ニューヨークで活躍する台湾人ジャズ・ヴィブラフォン奏者、チェンチェン・ルー(魯千千)へのインタビュー

Jul-03-2023


ニューヨークを拠点に活動する台湾人ジャズ・ヴィブラフォン奏者、チェンチェン・ルー(魯千千)。最新アルバム『Connected』が第34回金曲奨で「ベスト・インストゥルメンタル・アルバム賞」を受賞し、グラミー賞では新人ジャズアーティストのトップ10に選出されるなど、世界を舞台に目覚ましい活躍を見せている。

今回、そんな彼女がニューヨークから選りすぐりのバンドメンバーたちと共に来台。Melting Partとのコラボレーション・イベント、「SOUND OF JUSTICE」でライブを行った。Taiwan Beats編集部は彼女へのインタビューを行い、これまでの経歴や、音楽的バックグラウンド、アメリカでの活動、作品に込めた想い、さらには故郷台湾に対する気持ちまで幅広く語ってもらった。

 

ニューヨークの音楽シーンでは、自分がアウトサイダーであると感じたことはない

 

—— まずはジャズ・ヴィブラフォン奏者になった経緯について教えていただけますか?

「私はもともとクラシック音楽のバックグラウンドを持っています。6歳のときにピアノ、10歳のときにパーカッションを学び始め、高校までずっと音楽クラスに通っていました。その後、国立台北芸術大学に進学します。大学を卒業後はパーカッション・グループやオーケストラに参加しました。台北芸術大学では修士課程まで続け、合計7年間過ごしました。

10歳の時、私はシロフォンとスネアドラム、ティンパニを学びました。音楽クラスでは学期末のパーカッションのテストで、これら三つの楽器が常に出題されていたからです。こういった経緯もあり、ジャズに転向したとき、私はヴィブラフォンを選びました。10歳から25歳まで、ずっとパーカッションのトレーニングを受けてきましたし、自然な選択でした。

ヴィブラフォンはパーカッションの要素を持ちつつ、クリアな音階があります。その中音と高中音の周波数はとても抜けがいい。また、シロフォンと比べてそこまで大きくないので(笑)」

—— アメリカのジャズ・シーンは台湾人には少し馴染みがないかもしれませんね。あなたはニューヨークでキャリアをスタートしたんですよね?

「中壢(桃園市)から台北を経て、ジャズ音楽を学ぶためにフィラデルフィアに移りました。フィラデルフィアで2年過ごした後、ニューヨークに移住しました。最初にフィラデルフィアにいたとき、音楽シーンはアフリカ系アメリカ人によって支配されていました。アメリカではジャズ音楽のスタイルも地域によってそれぞれ異なっています。フィラデルフィアのミュージシャンから一度、『ニューヨークのミュージシャンは頭でピアノを弾く』と聞いたことがあります。なぜなら、ニューヨークは世界中から人々が集まってくる場所だからです。ニューヨークのジャズ・ミュージシャンは奇数のリズムなど複雑な演奏を好みます。その一方で、フィラデルフィアのミュージシャンは心でピアノを弾きます。

フィラデルフィアにいたとき、ジャズ・ヴィブラフォン奏者、ロイ・エアーズのトリビュートショーが行われました。R&Bとジャズの融合を体現するようなアーティストです。そのアンサンブルで、アジア人女性である私がロイの役を引き受けたことに、誰も反対しませんでした。

ニューヨークに移ってからはジャズ・トランペッター、ジェレミー・ペルト(Jeremy Pelt)との共演から多くを学びました。彼はニューヨークで25年以上活動しています。彼と仕事を始めたとき、私はとても緊張しました。彼らのレベルやスタイルを知らず、自分がついていけないのではないかと心配だったんです。しかし、リハーサルに行ってみると、思ったほど恐ろしいものではありませんでした。現在のニューヨークの音楽シーンは、異なる肌の色を持つ人々が目立ち、自己表現することを奨励しています。私は音楽の世界で、自分がアウトサイダーであると感じたことはありません。しかし、日常生活では必ずしもそうではありません」

 

ニューヨークで感じる孤独感が向上心を駆り立てる

 

—— ニューヨークは世界的な大都市ですが、あなたにどのような影響を与えましたか?そして、それはあなたに何をもたらしましたか?

「ニューヨークへは2017年に引っ越してきましたが、常に考えさせられる場所です。ここは人々を落ち込ませることができ、それが多くのことを考えるきっかけになるんです。音楽シーンはとても大きく、競争も激しいです。ジャズは厳しい分野なので、最初は『自分を鍛えなければ』と感じていましたが、その後、それは必要ないと気付きました。むしろ、自分のペースを追求することで、音楽をより長く続けることができるんです。

面白いのは、私がアジア人女性であるからか、さまざまな場で自己紹介をしようとすると、最初は多くの人々が私を『誰かのアジア人のガールフレンド』だと思っていることです。また、私と同じような環境で働いている台湾人の友人もいないので、ニューヨークでは、居心地の良さを感じることがほとんどありません。これは、台湾にいるときのように、自分の所属や仲間、経済状況を心配する必要のない状況とは真逆です。

私にとって、ニューヨークはミュージシャンを形成する場所です。それは素晴らしいミュージシャンがたくさんいて、彼らと働けるから、という理由だけではありません。自分の慣れ親しんだコミュニティから遠く離れ、直面する挑戦や、居心地の良い場所を持たないことも含め、全ての要素が一種の孤独感を引き起こし、自分自身を常に向上させるよう駆り立てます」

 

—— グラミー賞で新人ジャズアーティストのトップ10に選出されたこと、おめでとうございます。これは非常にポジティブな評価です。台湾のミュージシャンたちの海外進出を後押しするとしたら、どんな言葉を送りますか?

「私は皆さんに一歩踏み出すことを勧めます。実際、私たちが想像するほど難しいことではありません。あなたがすでにあるスキルを持っているなら、それはあなたが必要とするものです。もちろん、ネットワークも重要ですが、それは一部の人々が重視するもので、私自身はそこにあまり重きを置いていません。最も重要なのは、あなたが自分自身のアーティストであり、自分の声を持つことです。そしてそれは、人々があなたの音楽を聴く理由になります。

挑戦と困難に直面したとき、それらを受け入れることが重要です。あなたが困難を乗り越え、自分自身を鍛え上げることで、その過程が最終的にあなたの音楽に反映され、それが他の人々に影響を与えるでしょう。

そして最後に、海外で成功するためには、いつも自分自身であることを忘れないでください。あなたがどこから来たのか、根源は何か――それはあなたの音楽の旅を形作るものであり、他の誰にもなり得ない、唯一無二の存在になる理由です」

コロナ禍について反省し、人々とのつながりについて触れた最新アルバム『Connected』

 

——あなたのデビューアルバム『The Path』(2020年)には『望春風』や『魯冰花』など、台湾の楽曲を編曲したトラックも含まれています。これらのアダプテーション(改作)にはどのような意図がありますか?

「正直に言うと、『望春風』や『魯冰花』のアダプテーションには完全に満足していません。このアルバムをリリースしたときは、自分がどのような音楽を作りたいのか全く分からなかったんです。そして振り返ってみると、それは学校でただひたすら楽器の練習を続けるという、台湾の平和な環境によるものだと気付きました。音楽を通じて何を表現したいのか考える必要がなかったですから。

プロデューサーのリッチー・グッズ(Richie Goods)は、この2曲のメロディがとても気に入っていました。はじめてのアルバムだったので、彼はカバー楽曲をいくつか含めることを提案しました。これらのアダプテーションは、リスナーの注意を引く面白いポイントとなりました。

文化的な『ルーツ探し』の観点から、私は南管(※1)を学び始めました。南管とジャズには多くの共通点があります。まず、それぞれの音楽が盛んだった中国の泉州(福建省)とルイジアナ州の港は、いずれもお金が集まり、ビジネスマンが音楽を聴いていた場所です。

もう一つの共通点は、『ビート』の感覚です。南管もジャズも、独特のリズミカルなフィーリングがあります。今の私は『The Path』での『望春風』や『魯冰花』のように、メロディーを単純に改作することはありません。私にとって、音楽における異文化のコラボレーションやフュージョンは、異なる人種間のロマンスのようなものです。それは一方がもう一方に同化することではありません。むしろ、私たちはそれぞれの音楽の構造を分析し、そのユニークな要素を特定し、同じ、あるいは異なるポイントを把握した上で融合を試みるべきです」

※1 中国で生まれ、台湾でも演奏されている伝統音楽の一つ。悠然とした独自の旋律とリズムが特徴


——そして今年リリースのアルバム『Connected』が金曲奨で「ベスト・インストゥルメンタル・アルバム賞」にノミネートされましたね。おめでとうございます!前作『The Path』と『Connected』は、その意味からして強いつながりがあるように見えますが、そこに意図はあるんですか?

「この二作はいずれも、私がリッチー・グッズと一緒にプロデュースしたアルバムです。『Path』は私の過去を記録しており、はじめてのアルバムをリリースする前の人生を記録しています。一方、『Connected』はコロナ禍のニューヨークでの生活の記録です。コロナ禍が始まったとき、私たちはしばしば人種間の不平等や、アジア人への憎悪について聞きました。

このアルバムはコロナ禍について反省するだけでなく、人々とのつながりについても触れていて、私とリッチーとのコラボレーションにおけるマイルストーンとなりました。ニューヨークがロックダウンされていた時期、アーティストたちはようやく落ち着いて反省する時間を持つことができ、自身の思考を整理することができました。この二作は、時点の異なる私自身のポートレートと考えることができます」

 

「帰る」とは外で得た経験と洞察を生かして、元いた場所を改善すること

 

——あなたのバンドはさまざまな国籍のメンバーで構成されています。彼らについても教えていただけますか?

「リッチーと私はジェレミー・ペルトとの共演を通じて出会いました。リッチーは以前はR&Bとヒップホップのプロデューサー/ミュージシャンをしていましたが、現在は主にジャズシーンで活動しています。ジェレミーのヨーロッパツアーが終わった後、彼は私に『あなたは自身アルバムをリリースしたことがありますか?』と尋ねてきました。そして私が『まだだ』と答えると、彼は私のアルバムのプロデューサーになると言ってくれたんです。

若手ギタリストのクインティン・ゾト(Quintin Zoto)は、私たちがはじめてバンドを結成したときに誘いました。まだ実験的な段階だったので報酬は高くないかもしれないが、一緒に演奏する意志があるかどうか聞いたんです。そしたら彼はベテランのリッチーがいることを自身の練習の機会と捉え、喜んで承諾してくれました。彼は現在も劇的に進歩しています。

早間美紀はニューヨークのジャズシーンでリスペクトされているピアニストです。彼女はもともと京都出身ですが、ビザを取得するとすぐにニューヨークに移住しました。教会でピアノを演奏する機会を得て、そこのドラマーからゴスペルを学んだんです。最近は電子音楽を探求していて、ライブではシンセサイザーも演奏しています。

マイク・ピオレット(Mike Piolet)は私たちのツアードラマーです。ドラマーはみんなとても忙しいので、私たちは通常、2〜3人のドラマーをローテーションさせています。マイクは普段、ブロードウェイで週に少なくとも8回はショーを行っています。

最後に、イスメル・ウィグナル(Ismel Wignall)はキューバ育ちのパーカッショニスト。アフリカとキューバのリズムを得意としています。彼は20歳の頃からキューバのヴォーカル・カルテット、セクト・センティド・カルテット(Sexto Sentido Quartet)と一緒に世界中で演奏してきました。私たちのバンドは強力なリズムセクションを持っているので、私が何を演奏しても意味を成すんです」

——今回、来台に合わせてライブ出演するMelting Partとのコラボレーション・イベント、「SOUND OF JUSTICE」は、パフォーマンス内容も独特です。他のショーと比較してどのように感じますか?

「台湾でのツアーのほとんどは、国立のコンサートホールのような場所で行われ、皆が座って聞くというものでした。全体的に雰囲気はとても落ち着いており、フォーマルです。しかし、今回はヨーロッパやアメリカで披露しているようなパフォーマンスになります。リズムとテンションは全体的に強いですし、リッチーがもっと話すでしょう。私たちは最初から最後までエネルギーに満ちたショーにする準備ができています」


——最後に、今回はツアーのために台湾に帰ってきていただき、ありがとうございます!あなたにとって「home」とは何を意味しますか?

「私にとって、『home』はコミュニティ、所属する場所です。そしてある日、そのコミュニティがあなたの音楽や理想を支えられなくなったら、あなたは去らなければなりません。しかし、このコミュニティは多くの文化的要素を持っています。

そして『帰る』ことは、外部からの経験と洞察を持ち帰り、元いた場所を改善し、コミュニティをより良くすることを意味します。家はあなたが愛するものであり、同時に嫌悪するものです。不満を持ちながらも、貢献したいと感じます。結局のところ、あなたはそれをまだ愛しているのです!」