謝明諺(シェ・ミンイェン/Minyen Hsieh)が語る、知られざる台湾フリージャズ史からスガダイローらとの新作『Our Waning Love』まで

Aug-16-2023

オリジナル記事はMIKIKIに掲載されます:こちら

インタビュー・文/細田成嗣 , 通訳/池田リリィ茜藍, 写真/北原千恵美

いま、台湾でフリージャズの新しい動向が盛り上がりを見せている。恥ずかしながら、今回このインタビューを実施するまで、わたしはそのことを捉え損ねていた。もちろん、これまでもノイズや実験音楽、サウンドアートなどに関しては、台湾に独自のシーンがあることを認識していた。フリージャズを演奏するミュージシャンが何人か存在することも把握していた。だがジャズのシーンとなると、いわゆるスタンダードで保守的なものしかないと思い込んでいた。

しかしこれは大きな勘違いだった。台湾には約100年前の日本統治時代まで遡ることのできる独自のジャズの歴史があり、21世紀に入ってからは台湾ならではの要素を取り入れた実にユニークなアルバムも多数リリースされてきている。そして2010年代以降、ノイズのシーンとも交差しながら、台湾のジャズの歴史は新たな段階に入っていたのだ。そうした台湾フリージャズの立役者の一人が、サックス奏者・謝明諺(シェ・ミンイェン/Minyen Hsieh)である。

謝明諺は81年に台湾・台北で生まれた。19歳からプロとして音楽活動を始め、2005年にベルギーのブリュッセル王立音楽院に留学。2011年に帰国すると、台湾を拠点にジャズシーンとノイズシーンを跨ぎながら本格的な活動を展開していった。2014年に最初のリーダーアルバム『Firry Path』を台湾とヨーロッパの混成メンバーからなるカルテットでリリース。コンテンポラリーな曲調をベースに一部楽曲でのみサックスのフリークトーンを聴かせていたが、同年にレコーディングしたピアニストの李世揚(リー・シーヤン/Shih-Yang Lee)とサウンドアーティストの劉芳一(リウ・ファンギィ/Fang-Yi Liu)とのトリオによる『Constellation In Motion』(2017年)、および2017年録音の李世揚とドラマーの豊住芳三郎とのトリオによる『上善若水 As Good As Water』(2018年)では、全面的にフリーインプロビゼーションの手腕を発揮した。

さらに2022年には、台湾の詩人・鴻鴻(ホンホン/Hung Hung)と共同プロデュースしたアルバム『爵士詩靈魂夜 A Soulful Night Of Jazz Poetry』を発表。台湾、香港、マカオと異なる出自を持つ8人の詩人がそれぞれの言語でポエトリーリーディングを行い、そこにミュージシャンたちがメロウな演奏からフリージャズまでを絡ませることで台湾ジャズ史に新たなページを刻んだ。他にも謝明諺は、実験的電子音楽家の音速死馬(ソニック・デッドホース/Sonic Deadhorse)と組んだインプロビゼーションユニット〈非/密閉空間(Non-Confined Space)〉でアルバムを2枚リリース、加えて様々なインプロバイザーやノイズミュージシャンとの実験的セッション等々にも取り組んでおり、ジャズという括りに収まらない旺盛な活動を行っている。そして2023年、最新作としてピアニストのスガダイロー、ギタリストの細井徳太郎、ドラマーの秋元修からなるa new little oneとコラボレートしたアルバム『Our Waning Love』が完成。謝明諺の楽曲を中心に、クセ者揃いのメンバーによる、ジャズからフリーフォームまで自在に行き来するダイナミックな作品を仕上げてみせた。

繊細に揺蕩う音響からビブラートを効かせたアルバート・アイラーを彷彿させる叫びまで、一流の技術でサックスを操る謝明諺。6月の来日ツアーに合わせて実施したこの度のインタビューでは、これまでほとんど日本語で語られてこなかった台湾フリージャズの成立過程についてじっくりと話を訊きつつ、謝明諺またの名をテリーがどのようにフリージャズに触れていったのか、そして新作『Our Waning Love』の制作経緯および〈自由〉と〈即興〉についてまで伺った。

インタビューを終えてあらためて感じたことは、台湾のフリージャズは2020年代の今まさに新たな動向として興隆しつつあること、そしてそのパイオニア的存在の一人が、他でもなく謝明諺その人であるということだった。

 



台湾にフリージャズはなかった?

―欧米や日本のフリージャズに親しんでいても、台湾のフリージャズについてはあまり知らないという日本のリスナーも多いと思います。まずは台湾においてフリージャズがいつ頃からどのように発生したのか、その歴史的背景について教えていただけますか?

「ジャズという音楽スタイル自体は台湾にも戦前からありました。けれどもフリージャズとなると、僕が認識している限りでは、過去のどの時期から形成されてきたかということが明確には言えないんですね。ただ、ノイズや実験音楽関連のアーティストに関しては、90年代あたりを境に徐々に盛り上がってきた。そうした時代の流れはありましたが、その中でフリージャズもあったのかというと、そこまで洗練されていなかったように思います。

僕が活動し始めたのは2000年からなのですが、当時は台湾人よりも外国の方々と一緒にジャムセッションをすることの方が多かったです。台湾の先輩ジャズミュージシャンの方々がアルバムの中でフリージャズ的なスタイルを部分的に聴かせることはあったものの、ライブでフリーフォームのセッションを行うとなると、やっぱり海外の方々の方が多かった。なので台湾国内のミュージシャンでフリージャズに取り組んでいた先行世代というのは明確には思い浮かばないですね。

僕自身が本格的にフリージャズに取り組み始めたのは、2005年にヨーロッパ留学した時期で、それが転換点になりました。その時は留学先のレッスンの中や、もしくは街中のライブで、そうしたフリージャズ的なアプローチをしていました。僕が台湾に帰国したのは2011年です。そこからプロとして音楽活動を展開していくんですけど、その時にコラボレーションするようになったのは、ノイズや実験音楽、もしくは演劇関連の方々でした。2011年当時は、台湾でもノイズや実験的なことをやるアーティストがたくさんいるんだな、そういったシーンが盛り上がってきているんだなということを、実体験として感じましたね。

台湾には実験音楽のイベントやノイズのフェスが色々とあって、そういったライブを行う機会がたくさんある中で、主催の方々が僕を〈ジャズ寄りのアーティスト〉として誘ってくれていたんです。なので僕は、ノイズや実験音楽のコミュニティの人たちと、ジャズのコミュニティの人たち、その両方を跨がって行き来する立場にいたので、仲間のジャズミュージシャンたちをノイズのイベントにも連れて行こう、僕だけじゃなくて色々なジャズミュージシャンとノイズの現場で一緒にセッションする機会を設けようとしていました。

今は少し離れてしまっていますが、2011年~2016年当時は、ノイズ系のフェスやライブの中で、ジャズの人たちと一緒に即興で演奏をするというような活動をしていたんです。ちょうどその頃、ノイズアーティストの張又升(チャン・ヨウシェン/You-Sheng Zhang)が立ち上げた旃陀羅レコード(Kandala Records/2009年設立)というインディペンデントレーベルが台湾内外の実験的な音楽を精力的に紹介していたので、彼らとも一緒に活動したりしました。多面的なアーティストで大阪に住んでいたこともある黃大旺(ファン・ダワン/Da-Wang Huang)さんともそこで出会いました」


日本統治時代から白色テロ時代へ、米軍クラブでの台湾ジャズ

―なるほど。例えば日本だと、60年代から70年代にかけて、ジャズの文脈から高柳昌行さんや富樫雅彦さん、佐藤允彦さん、山下洋輔さん等々、フリージャズのパイオニア的存在が出てきました。しかし台湾の場合はそうではなく、87年の戒厳令解除後、徐々にノイズシーンが形成されていく中で、2010年代にジャズシーンとも交差することで、次第にフリージャズと呼べるような実践が興隆していったと。

「そうです。もう少し遡ると、台湾では1895年から1945年にかけて、50年にわたって日本統治時代がありました。当時は日本で流行っていたものが台湾に輸入されるという形で、日本の流行歌も台湾に入ってきていた。当時の台湾では、日本の音楽シーンに加え、日本を介して世界の音楽シーンとも間接的に繋がっていたんです。けれども日本敗戦とともに、中国国民党政府が台湾を接収してから政治的な状況が一気に変わり、1947年の二・二八事件以降は戒厳令が敷かれ、40年も続く長い白色テロ時代が始まります。

その中で台湾における芸術・文化表現に対する抑圧が生まれました。それで日本とは大きく異なる歴史を歩んでいくわけですけど、その中でジャズの状況が変化するきっかけとして一つあったのが、60年代のベトナム戦争です。その頃から台湾は〈美援(米援。台湾では米国を『美國』と記す)〉、つまりアメリカからの支援を受けるんですね。それによって台湾は、いわば沖縄みたいな位置づけになっていく。すなわち、台湾に数多くのアメリカ軍が駐屯するようになっていくんです。するとミリタリークラブがたくさん作られるので、その中でジャズの演奏も行われるようになっていきました。

ただ、それはあくまでも軍のパーティーの盛り上げ役、サービスとしての音楽のあり方なので、例えば70年代に入ってから欧米や日本と同じように前衛的/実験的な音楽の流れを汲んでいったのかというと、僕が知っている限りではそうしたことはなかったと認識しています」


戒厳令解除後に花開いたロック、実験音楽、ジャズ

―すると、日本における高柳昌行さんや山下洋輔さんに当たるような、〈台湾フリージャズ界のパイオニア〉と呼べる人物は過去にはいなかったということでしょうか? 例えば台湾のノイズシーンだと、林其蔚(リン・チーウェイ/Chi-Wei Lin)や王福瑞(ワン・フーレイ/Fu-Jui Wang)といった90年代のパイオニア的存在を挙げることもできますが。

「台湾におけるフリージャズのパイオニアの名前を挙げられるかというと、残念ながらパッと思いつかないです。もしかしたら20年後、同じ質問があった時に僕の名前が出てくるんじゃないでしょうか(笑)。そのぐらい見当たらないですね。

ただ、99年に『存在 Pure Existence』という即興ソロピアノのライブアルバムをリリースした人物がいました。ピアニストの吳書齊(ウー・スーチー/Su-Chi Wu)です。そのアルバムでの彼のアプローチは、キース・ジャレットの『The Köln Concert』(75年)に近いもので、山下洋輔さんのようなエネルギッシュなフリージャズではないですが、もしかしたら彼が台湾で最初に完全なインプロビゼーションの作品をリリースしたジャズミュージシャンかもしれません。

吳書齊は75年生まれで、このアルバムの後は再びメインストリーム寄りのジャズのスタイルに戻っていき、2008年に若くして亡くなりました。『存在 Pure Existence』は没後の2009年に台湾のレーベル・倍特音樂(現・貝特音樂)からリイシュー盤が発売されています。

さっきの台湾のジャズの歴史的発展について少し補足しておくと、台湾ではやっぱり87年の戒厳令解除が一つの区切りになっています。その後、数年かけて社会の様々な面で新しい動向が出てきたわけですが、その中で音楽的な部分にフォーカスすると、抑圧された表現が爆発的ないし反逆的に盛り上がっていったのは、ジャズよりもどちらかというとロックだったり、実験音楽やノイズだったりが目立っていました。

95年に初めてジョン・ゾーンが台湾に来たんですよね。その時に観に行ったのもジャズの人たちではなくて、どちらかというとハードコアのファンかパフォーマンス系のアーティストでした。ミリタリークラブでジャズを演奏していた人たちが、当時、そうしたインディペンデントな音楽の波及効果を受けたのかというと、残念ながらそこまで影響はなかったと言えます。

2022年作『爵士詩靈魂夜 A Soulful Night Of Jazz Poetry』収録曲“約翰佐恩・一九九五・台北即興 John Zorn, Taipei Impromptu, 1995”。動画のキャプションには〈95年に台北の皇冠小劇場で日本のサウンドパフォーマー、
山塚アイと行った大胆なパフォーマンスは、詩人たちに都市生活の魔法を体験するようにインスピレーションを与えた〉とある

台湾でインディペンデントなロックやノイズが興隆し始めたのは90年代前半でした。台湾におけるジャズの歴史では、戒厳令解除後の第1世代――僕は第2世代に当たります――のミュージシャンたちが留学から帰国したのが、おおよそ90年代後半から2000年代初頭なんです。彼らが帰ってきた当時は、それ以前のミリタリークラブのバンドのようなサービスとしての演奏ではなく、ようやく自分たちの作品と言えるものを発表していくことができるようになった時期でした。その頃から台湾のジャズアルバムも市場に出回り始めたんですね。ただ、そこではどちらかと言うとスタンダードなジャズが多かった。

それで僕ら第2世代は、2000年代後半から2010年代初頭にかけて留学から帰ってきたのですが、そうしたスタンダードなジャズを自分たちの作品として発表できるようになったところから、さらに、実験音楽やノイズなどジャズ以外の人たちとも合流することで、ジャズシーンを開いていくことになりました。それによって台湾におけるジャズのあり方が拡張していったという流れがあります。

第1世代が帰ってきた2000年代は台湾でジャズフェスティバルが開催されるようになった時期でもありました。2003年から台中ジャズフェスティバル(臺中爵士音樂節/Taichung Jazz Festival)と両庁院サマージャズ(兩廳院夏日爵士/NTCH Summer Jazz)が、2007年から台北ジャズフェスティバル(臺北爵士音樂節/Taipei Jazz Festival)が始まりました。両庁院というのは台北・中正紀念公園にあるコンサートホールとシアターホールを指します。僕らの世代からすると、この3つの音楽フェスが、スタンダードなジャズをメインとする歴史あるジャズフェスなんですね」


台湾ジャズを育てた第1世代の教育者たち

―いわゆるフリージャズではないかもしれないですが、上の世代でテリーさんが重要だと思うジャズミュージシャンにはどんな人物がいるのでしょうか?

「影響力が大きいミュージシャンの一人は、今70代の黃瑞豐(ファン・ルイフォン/Ruey-Feng Huang)先生。ドラマーの方です。それと第1世代に当たる人物として、ピアニストの彭郁雯(ポン・イーウェン/Yu-Wen Peng)先生。サックスの董舜文(トン・シュンウェン/Shuen-Wen Tung)先生。彼ら彼女らは作品量が多いですし、後進の育成にも力を入れているので教え子もたくさんいます。

黃瑞豐の2011年のパフォーマンス動画

彭郁雯の2014年のインタビュー動画

無限融合樂團(Timeless Fusion Party)の2010年作『無限融合黨(Timeless Fusion Party)』
“該走了嗎?(Time To Leave)”。無限融合黨は董舜文のフュージョンバンド

同じく第1世代で、ミリタリークラブで演奏していたバイオリニストの謝啟彬(シェ・チィーピン/Chi-Pin Hsieh)先生。あと、ピアニストの張凱雅(チャン・カイア/Kai-Ya Chang)先生。この2人も作品量が多くて、教育者でもあります。董舜文先生と謝啟彬先生、張凱雅先生は、僕が習っていた先生で、この先生方の影響がきっかけでベルギーに留学することになりました。特にサックスの董先生は僕にとってジャズのメンター的な存在です。

謝啟彬&蟻正行義の2019年のライブ動画。蟻正行義は洗足学園音楽大学ジャズコースの教授であるピアニスト

張凱雅の2006年のライブ動画

他にも台湾の素晴らしいジャズミュージシャンはいて、僕自身、間接的に影響を受けていると思いますが、今パッと思い出せたのはこの5人ですね」


フリージャズに挑戦する音楽家が増えたのは2020年代から

―ところでテリーさんはどのようなきっかけでフリージャズを聴き始めたのでしょうか?

「ジャズに興味を持ち始めたのは高校生の頃、96年~98年の頃でした。当時なぜ僕がジャズを聴けるようになったかというと、ちょうどこの時期に台湾に海外のジャズアルバムがたくさん輸入されるようになったんですね。例えばOJC(オリジナル・ジャズ・クラシックス)レーベルの作品をよく聴いていました。そうやって海外のジャズに触れる中で、フリージャズも聴くようになったんです。学校の図書館にもCDやジャズの歴史を紹介する本があったので、高校時代はそこで聴いたり読んだりもしていました。

ミュージシャンで言うと、ソニー・ロリンズ、スタン・ゲッツ、オーネット・コールマン、ジョン・コルトレーン等々は特に聴いてました。それと当時、外国のミュージシャンが台湾に来ていたので、そこでフリージャズスタイルのライブを実際に観る機会もあって、すごくクールだなと思って衝撃を受けました。

とはいえ当時は高校生だったので、どちらかというとやっぱりスタンダードな方を聴いていましたね。本格的にフリージャズを聴き始めたのは、2005年にベルギーに留学する前の時期、2000年~2004年の5年間です。その頃に色々な海外のミュージシャンを聴くようになりました。

2011年に台湾に帰ってきてノイズの人たちと交流する中で気づいたのは、ノイズにしろロックにしろ、あるいは中国の伝統楽器を使う国楽(漢民族の伝統音楽)の人たちにしろ、実はフリーインプロビゼーションで演奏できるミュージシャンが多いということでした。ジャンルは違えど即興的な表現が得意なんですね。それに台湾は分野横断的なコラボレーションが進んでいるので、例えばライブペインティングやコンテンポラリーダンスの人たちと一緒にミュージシャンが即興で作品を作ることもある。みんなそういった素養や実力を持っているんです。

にもかかわらず、ジャズだけ取り出してみた時に、ジャズというジャンルをど真ん中でやっている人たちは、台湾国内ではなぜかあまりそういった自由な即興的表現にトライしない。あえてしないようにしているのか、理由は定かではないですけど、2011年に帰国した時にそうした傾向は感じました。フリージャズにトライするミュージシャンが本格的に増え始めたのはここ3年間、つまり2020年代に入ってからですね」

台湾ジャズの今を牽引する才能たち

―2011年の帰国当初、テリーさんがセッションするようになった海外のミュージシャンには、どんな方がいましたか?

「旃陀羅レコードが2012年にサブさん(豊住芳三郎)を台湾に呼んだことがきっかけで、僕はサブさんと知り合うことになりました。それでサブさんと一緒にセッションを重ねたんですが、海外のミュージシャンの中で一番影響を受けた人物となると、やっぱりサブさんですね。

 

豊住芳三郎、謝明諺&許郁瑛の2023年のライブ動画

あとは台湾国内だと、クラシック出身なんですけど、僕と同世代で1歳年下の李世揚(リー・シーヤン/Shih-Yang Lee)というピアニストがいて、彼とのセッションからも影響を受けました。2012年にサブさんが来た時は、僕と李世揚と3人で一緒に演奏して、その後も交流が続いていきました。それで知り合ってちょうど6年目の2018年に『上善若水 As Good As Water』というアルバムをこの3人で出しました」

2018年作『上善若水 As Good As Water』トレーラー


―2011年の帰国当初は台湾でフリージャズがあまり盛り上がっていなかったものの、2020年になると増えてきた、と。そのように状況が変わるきっかけとなるようなイベントなどはありましたか? 例えば、2005年にスタートしたイベントシリーズの失聲祭(Lacking Sound Festival)などは、台湾のノイズシーンの醸成に少なからず影響を及ぼしたと思いますが。

「今おっしゃった失聲祭や先ほど挙げた旃陀羅レコード、それに先行一車(Senko Issha/台北のレーベル兼ショップ兼スペース)周辺の人たちに加えて、この10年間のことで言うと、2015年から台湾国際即興音楽節(Taiwan International Improvised Music Festival)という音楽フェスが2年に1回のペースで開催されてきました。そういった複数のイベントやレーベルでずっとプッシュしてきたものが2020年代に入ってから花開いたのだと思います。

特に台湾国際即興音楽節は、関連イベントも含め、台湾の色々な場所で大小の即興のライブを観ることができるプログラムを組んでいたので、そういった中で風土が醸成されていったというか、フリージャズ的なものが少しずつ根づいていったという流れはあります」

―2023年現在、台湾のフリージャズを牽引すると言いますか、テリーさんと同世代または下の世代で重要だと思うミュージシャンには、どんな人物がいるでしょうか?

「先ほども名前を出したピアニストの李世揚。それと、同じくピアニストの許郁瑛(シュー・ユーイン/Yu-Ying Hsu) 。あと、ギタリストの陳穎達(チェン・インダー/Ying-Da Chen)とドラマーの林偉中(リン・ウェイジョン/Wei-Chung Lin)。彼ら彼女らはスタンダードも上手いですけど、色々なプログラムにトライしていますし、よりフリーな音楽に踏み出している印象もあります。

 

許郁瑛の2010年作『許郁瑛首張爵士創作專輯 Untitled』収録曲“Twisted One (Inspired By Francis Bacon)”

 

陳穎達の2019年作『離峰時刻』収録曲“花紋”

陳穎達、謝明諺、池田欣彌&林偉中の2015年のライブ動画

これは僕の意見ですが、アバンギャルドな即興音楽ならなんでもよいわけではなく、フリージャズはやっぱりちゃんとジャズっぽく聴こえないといけない。僕としてはそこはこだわるべき箇所だなと思っています」

スガダイローらとの演奏の記録と10年の経験を刻んだ『Our Waning Love』

―今回リリースされたアルバム『Our Waning Love』は、1曲を除き全てテリーさんの作曲で、プロデュースもご自身で担当されています。タイトルは〈薄れゆく愛〉といった意味ですが、どのようなコンセプトがあったのでしょうか?

「そもそもなぜこのアルバムを作ろうと思ったのかを説明すると、ツアーの記録をレコーディングしたかったということが最初の発想としてありました。僕からスガダイローさんたちを誘ったので、僕が作曲したものをレコーディングしようということになりました。ただ、その中で1曲だけスガさんの曲(“A Little Rag ...For You”)が入っているのは、よくライブで演奏していた曲だったんですね。なのでワンテイクでスガさんたちと一緒にやろう、ということでこうした楽曲構成になりました。

『Our Waning Love』トレーラー

先にアルバムの曲が決まり、その中からネーミングやテーマをどうするのか一緒に考えていきました。アートワークを担当してくれたデザイナーの方々と話していくうちに、たとえば“Ann”という曲の曲調であったり、メロウな感じであったり、そうしたことから、〈Love〉という方向性でまとめていけばいいんじゃないか、となりました。タバコの煙を燻らせる女性がジャケットに写っていますが、そのように話し合って全体のアルバムの雰囲気をビジュアル化したんです。なのでテーマやコンセプトは後から決めていきましたね。

『Our Waning Love』収録曲“Ann”

補足すると、ツアーの記録と言いましたけど、実は多くの曲はファーストアルバム『Firry Path』(2014年)をリリースした約10年前に書き上げていました。『Firry Path』は、ヨーロッパ留学から帰ってきたばかりの時期に制作したアルバムだったので、どちらかというとヨーロッパスタイルの演奏でした。実際にドラムとベースはヨーロッパのミュージシャンが参加しています。ピアニストの曾增譯(ツェン・ツェンイ/Tseng-Yi Tseng)だけ、僕と同じくヨーロッパ留学から帰ってきた台湾の人でした。

2014年作『Firry Path』ティーザー

なので『Firry Path』はヨーロッパ寄りのアルバムだったんですけど、そこから約10年が経ち、僕もアジアの色々な音楽から洗礼を受け、経験を積み重ねてきました。その上で、今回のアルバムでは同じ時期の曲を取り上げているんですね。曲自体の湿度的なものは同じだったとしても、それを10年後に再解釈したという意味では、この10年間の対比が聴き取れるアルバムにもなったんじゃないかと思います」

今を生きる瞬間を完璧に表現できるのが即興演奏

―今回のプレスリリースで、テリーさんはジャズについて〈自由を表現する完璧な方法〉とおっしゃっていました。かつてフリージャズの文脈では、即興演奏こそ自由を表現する手段だという見方がありましたが、今回のアルバムはすべて完全即興というわけではなく、どれも譜面が用意されていて、基本的にはしっかりとした曲がありますよね。そこでお訊きしたいのですが、テリーさんにとって〈自由〉とはどのような状態を意味するものなのでしょうか? また、その際に〈即興〉とはどのような役割を果たすものですか?

「例えばソニー・ロリンズの有名なライブ盤『A Night At The Village Vanguard』は、ビバップ~ハードバップの古典的なアルバムですけど、僕はそれを聴きながら、彼らが自由意志を持ってどこに向かいたいのかを感じることができます。

僕にとって自由というのは、無制限で自由気ままにあるものではなく、そこには枠組みがしっかりとあるものなんです。今回のスガさんたちとのコラボレーションでも、枠組みがあるという前提の中で、誰かが枠を超えそうになった時も、自分たちはそれをキャッチできるという心構えがある。つまり何が言いたいのかというと、自由は無責任ではないということです。自由は気ままに行きたい場所に行くことではなくて、自由にも前提があり、代価があると思うんですね。

そして僕にとって即興演奏というのは、音楽の核なる部分です。曲はある種の提示であり、道筋を示すガイドだと思います。その道をどのように歩きたいのか、その道の中で何を見たいのかといった時に、そこに制限を設けるべきではないと思います。たとえばマイルス・デイヴィスのセカンドクインテットの演奏を聴いていると、彼らにもテーマはあるし、メロディーラインもしっかりとわかるけれど、どうやって前進するのか、どうやってそれを終えるのかは、あらかじめ予定調和的に決めているわけではないことが感じられます。つまり、今を生きるその瞬間を最も完璧に表現できるもの、それが即興演奏だと思っています。

あらかじめ作られた曲を演奏する場合は、その作品の世界観がすでにあるので、いわば物語の世界なんですね。演奏することによって、聴く側を違う軸の世界に連れていくものだと言えます。つまり、曲という観点では、曲は物語の世界を見せる/聴かせるものであるのに対して、即興演奏というのは、演奏する側と聴く側が、その瞬間は同時に共振し、同時に存在できることだと考えています」