エリ・リャオ(Eri Liao)インタビュー:音楽を通じて多文化的なアイデンティティ探求を

Jun-21-2023

エリ・リャオ(Eri Liao)は台北生まれ・日本在住の歌手。祖国・台湾のうた、日本のうた、ジャズと、彼女の音楽は驚くほど幅広く、それらが重なりあうことで創造的なものとなっている。

Interview and photos by Akira Saito 齊藤 聡

原住民として生まれ育ち、日本に移住した

エリ・リャオは台湾原住民・タイヤル族(泰雅族)(*1)の母と日本人の父との間に生まれた。彼女が小学2年生のとき、母とともに日本に移住した。

東京大学では文学部で宗教学を学んだが、実際のところ大学にはちゃんと通っていなかった。父は母よりも20歳上で、エリが20代半ばのころには介護が必要となっていた。そんな事情もあって、いちどは台湾に父を連れて戻った。90年代以降の台湾では民主化運動と軌を一にして「原住民」の権利運動が盛り上がっており、彼女自身もこのとき現在進行形の原住民音楽にはじめて触れた。たとえば、パナイ(プユマ族、アミ族)、スミン(アミ族)、陳建年(プユマ族)といった人たち。エリにとって、それらは励まされる音楽だった。

20代もおわりのころになって東大に復学し大学院にも進んだが、彼女にとってはもはや原住民のことばやうたを研究する場ではない。あとは独立独歩だ。

 

歌いはじめ、アメリカに渡った

幼少期からピアノやエレクトーンを熱心に習ってはいたが、ことジャズピアノのレッスンを受け始めたのは30歳になる少し前のことだ。そのあと、ふとなにかのライヴに出かけてみたところ、出演している歌手が驚くほど下手で衝撃を受けてしまい、「自分にもできるのでは」と思いついたのだと苦笑する。そんなわけで、彼女は歌い始めた。チャリート(フィリピン生まれのジャズ歌手)のレッスンも受講してみた。

だが、それでは歩みが遅いような気がしてならなかった。彼女は渡米し、コロンビア大学大学院芸術学科の「クリエイティヴ・ライティング」コースに編入した。実のところ、ニューヨークに行けるのならどこでもよかった。大学では宿題に追われる日々だったが、ジャズ界隈での行動も起こしてみた。

まずは、毎週火曜日に行われていたバリー・ハリス(ピアノ)のワークショップ。これはビバップそのものだ。そこでテナーサックスのビリー・ハーパーが歌手を探していると聞き、オーディションを受けたら合格した。ハーパーは歌手20人くらいをコアメンバーとして定め、50人くらいのクワイアでコンサートを開いた(*2)。セクステットに歌手ふたりくらいの小編成も試していた。クラシック出身の歌手にとっては音域の広さが難しいようだった。レコーディングもしたが、資金難のためか、リリースされないままだ。

ハーパーからは、日本の民謡も歌えるかなと提案されることがあった(<ソーラン節>はハーパーのレパートリーのひとつである)。エリにはまだ歌えなかった。

 

アメリカでアイデンティティをとらえなおしはじめた

ある日、ハリスのワークショップで知り合ったピアニストから、ハリスが出演するヴィレッジ・ヴァンガードのライヴに台湾原住民の友人が来るんだと聞かされた。数少ない原住民が来るのか半信半疑ではあったが、足を運んでみると、本当にエリより若いくらいの原住民の人たちが5、6人ほど来ていた。かれらは国連で開催された「世界先住民族会議」への出席のため渡米していたのだった。

いうまでもなく、台湾は中国の存在があるため現在でも国連に加盟できないでいる。そのため台湾のパスポートでは国連のビルにも入れないのだが、原住民だけは入ることが許可されていた。エリも聴きに行ってみた。自分自身の幼少期は、多くの漢民族(*3)と自分たちとは違うのだ、という認識にとどまっていた。ただ、母親が石を投げつけられた記憶もあったし、現在でも差別は残っている(日本がそうであるように)。原住民どうしでは顔かたちや話し方の特徴も判るようで、エリもヴィレッジ・ヴァンガードで「タイヤル族でしょう?」と当てられたという。

彼女にとって、アメリカ体験もまたアイデンティティのとらえなおしだった。アメリカには4年ほど居て(2010-14年)、日本に戻った。

 

ライヴ活動をはじめた

アメリカからの帰国後、2015年から日本でライヴ活動を開始した。ジャズスタンダード曲なんかを演っていたが、観客から台湾のうたを聴きたいとの声が届いてきた。もちろんエリ自身は台湾の古いうたを聴いてはいた。

台湾で「老歌」(ラオク)というと1960年代くらいに流行った曲のことを指すことが多く、現地ではほとんどスタンダードになっている。若い人たちも普通にカヴァーしているという。それらは、エリの母が歌っていたものでもあった。

自身のルーツを見つめるようになってはいたが、当初、彼女は音楽だけを演りたかった。だがライヴのときにもあれこれと聞かれることがあった。実のところ体験を記憶から掘り起こしてはいたものの、言語化することは容易なことではない。そんなことも含めて、エリは今年になってカウンセリングを受けている。実際にこれは社会問題でもあり、少なくない台湾原住民の人たちにとってアイデンティティとメンタルヘルスとは少なからず関連しているのだという。彼女がもとより「音楽だけ」と考えていたことは、無意識に自身の裡からなにかアイデンティティにつながってしまう影響を受けていたからかもしれなかった。

彼女はライヴの機会に台湾原住民のことを少しずつ話すようになってきているし、ウェブ上で自分や家族の物語を発信しはじめてもいる。さらに、これまで生活体験があっただけの台湾でも定期的に長期滞在し、音楽活動をしたいと思っている。

 

いまの音楽

ピアノの弾き語りでは家族のことをうたうし、原住民のことも入れざるを得ない。日本語だけでなく、タイヤル語や、ブロークンな中国語でも歌う(筆者は、彼女がアントニオ・カルロス・ジョビンのボサノヴァ曲をタイヤル語で歌うのを観て驚いた)。最近では沖縄の三線も使っている。沖縄の人に、「八重山の声に近い」と言われることがあるという。だが三線自体はなぜか台湾には入っていない。

デュオはいろいろな人と演っている。ギターのファルコンとは即興も曲も演る。伊藤志宏などピアニストとの共演では曲、とくに台湾の曲を入れるようにしている。もっと大勢となると、伊藤志宏のアンサンブル、河崎純(コントラバス)の「ユーラシアンオペラ」。2022年にはさまざまな縁がつながり、ファルコン、宮古島の池野真理野(サックス)や與那城美和(唄者)、北海道アイヌのOKI(トンコリ)とのコラボレーション企画「FESTOON」を2回開催しており、今年(2023年)も秋になにかやりたいと話す。

ドイツで2023年6~7月に開催される世界演劇祭では、劇作家・市原佐都子がギリシャ神話をベースとして創作した『バッコスの信女―ホルスタインの雌』にコーラス隊のひとりとして参加するし(同作品は「あいちトリエンナーレ2019」で発表され、第64回岸田國士戯曲賞を受賞。額田大志が曲を手掛けている)、着ぐるみアーティスト・サエボーグの『Super Farm』では着ぐるみの中の人となる(!)。台湾のアーティスト・王虹凱(ワン・ホンカイ)の作品に歌と朗読で参加してもいる。

エリ・リャオの好奇心は音楽だけにとどまらず、さまざまな地域、さまざまな活動に広がってゆくことだろう。

(文中敬称略)

(*1)台湾では先住民族のことを原住民と称する。

(*2)ビリー・ハーパーはポーランドのクワイア数十人とともに映像作品『Billy Harper In Concert - Live From Poland』(2007年)をリリースしており、締めの曲はエリの体験したコンサートと同様の<Cry of Hunger>である。

(*3)台湾の人口に占める漢民族の割合は8割以上であり(戦後中国大陸の各地から渡ってきた外省人を除く)、いっぽう原住民族の割合は2%程度である。