最初の日台音楽交流はこれだ~1930年代の素晴らしい台湾ポップス

Jul-06-2021

台湾の最初のポップスって何だろう・・・。

世界中でポピュラー音楽、ポップスが始まったのが、19世紀後半~20世紀初めと言われますね。

この時期は大衆文化が成熟してきましたし、なんといっても1877年に、あの、エジソンが蓄音機(レコード・プレイヤー。台湾では、留声機といいます)を発明し、その後、ベルリナーという人が、あの平たい黒いレコード盤を発明したから。このことで、音楽が広がって行き多くの人が楽しめるようになったんです。ポップス=大衆音楽のはじまりです。

台湾もそうです。そして、この時代、台湾は日本の統治下にありました。だから、台湾の最初のポップスは、日本統治時代に生まれた、わけです。

今からお話するのは、台湾の1930年代の話になります。そんな昔のことはちょっと…というかたもいるかもしれませんが、たとえば「望春風」という曲をご存じですか。台湾のエアラインに乗ると、機内BGMで聞こえてくるほど、台湾の人にとってはおなじみの曲。一青窈も歌っている。テレサ・テンも歌っていた。これも、この時代のポップス。1934年の曲です。

さて、では、台湾の最初のポップスは?というと、ほんの数年前まで、台湾では「桃花泣血記」という曲だと思われていたんです。これは、1931年の上海映画「桃花泣血記」が翌年台湾で公開される時に、プロモーションの曲として作られたものです。この映画は、当時の人気俳優が主役を演じた、お金持ちの男性と貧しい女性の悲しいラブ・ストーリー。

当時の台湾の人は、上海の映画が大好きで、台湾での公開にあたっては宣伝にも気合いを入れたのでしょう。この曲を楽隊が演奏し、ちらしを配りながらトラックなどで、台湾の津々浦々まで宣伝活動し、おかげで、この曲は大ヒットしました。

作詞作曲したのは、詹天馬王雲峰、人気弁士でした。弁士という職業は、若いかたはご存じないかもしれませんが、当時の映画は、無声映画なので、上映される劇場には、ストーリーやセリフを話す弁士という職業の人がいて、楽団もいて、今から考えると相当豪華な状況だったわけです。

そんな有名曲を、レコード会社コロムビア(古倫美亞)のボスの栢野正次郎は、レコーディングするしかない!と思い、純純(スゥンスゥン)という女性シンガーで録音しました。もちろん大ヒット。これが台湾最初のポップスだと言われてきました。

しかし、なんと、最近、もっと古いレコードが出てきたのです!

普通、レコードは、原盤があり、そこから複製して何枚ものレコードを作り売るのですが、戦争の時代、空襲で建物が燃えてしまい、原盤がなくなってしまいました。よって、この時代のレコードは、たとえば、古道具屋さんに誰にも注目を浴びずにおいてあったとか、古い家が壊されたときに出てきたとかで、レコードそのものが出てこなければ、わからない。そんな状況で、台湾で、1枚のレコードが見つかった、それが「烏猫行進曲」。なんと、レコード盤には、流行歌と書いてある。1931年の曲。この時代のポップスの研究者たちは、皆ひっくり返ったといいます。最初のポピュラー・ソングが出てきた!

さて、私が何故、この時代の曲に興味を持ったかというと、97年にソロ・デビューしたアメリカLA育ちの、R&Bのシンガー・ソングライター陶喆(デイヴィッド・タオ)がデビュー・アルバムで「望春風」をカヴァーしたからなんです。デイヴィッドは、もともと他のシンガーに曲を書いていて、ソングライティングの力には定評があったのですが、彼がソロでアルバムを出す、ということになったときは、台湾中のレコード会社が手をあげたと言います。そして彼が選んだのは、まったく音楽と関係ない会社がデイヴィッドのために作ったレコード会社、ショック・レコード、そして出たアルバムが『陶喆』。そこに入っていた「望春風」の、見事なR&Bアレンジのサウンドと、どこか懐かしいメロディに惹かれました。そして、後にこの曲が1934年の曲であることがわかりました。歌手は、純純、そして作曲は鄧雨賢、作詞は李臨秋。

純純は、30年代のスーパースター・シンガーです。この時代は、多くが台湾語で歌われていたので、台湾語ポップスのスーパースター。「望春風」は、ちょっとハワイアンな感じのクールなサウンドで、こちらもかっこいい。また、歌詞は、女性が男性に向けてのラブ・ソング。当時の保守的な社会の中で、女性の想いを歌うというのも新しいことだったのです。

私は、この鄧雨賢が大好きになって、他の曲も聞きました。そうしたら、「望春風」を含めて4つの曲の頭文字をとって「四月望雨」を作曲した有名な方でした。

ここでひとつだけ、日本人の私たちが知っておかなければならないことがあります。戦争が深刻になり、台湾人の軍人をリクルートしたい、といった目的もあって、鄧雨賢の3曲が軍歌に変えられてしまいます。甘く切ないクールなサウンドの歌が、歌詞もサウンドもいさましくなりました。こういう話を聞くと悲しくなりますが、しかしそれだけ鄧雨賢の曲は、台湾の人たちに愛されていたということなんですね。

この時代、台湾は、他の国=日本によって植民地にされていたのだから、日本人としては、心が痛みます。でも、この時代、少しの年月だけですが、台湾で、日本人と台湾人が共同作業をし、素晴らしいポップスを作り上げたということに、今は感謝したいと思っています。

日本統治時代、レコーディングのために、台湾の歌手とスタッフは、危険を犯し船で海を渡り、日本でレコーディングをしました。合間に銀座で買い物などをしたり観光しながら、日本を楽しんだそうです。そして、出来た原盤をもとにレコードにし、今度は、レコードが、船で海を渡り、台湾に行き、台湾の人たちを楽しませました。この時代、日本の歌手が台湾でコンサートやプロモーションも行なうこともあり、そうやって、台湾と日本の、音楽における交流はこの時代からあったわけです。

台湾にポピュラー音楽が生まれて90年。そして、90年経った今もいろいろな形で日台のアーティストの交流が行われ、素晴らしい音楽を生み出しています。

今、台湾の権威ある音楽賞、金曲奨受賞式はコロナ禍で残念ながら延期になっています。そんな中、金曲奨に貢献してきたシンガポール出身、中華圏のまさにスーパースター林俊傑(JJリン)がプロデューサーとなって、以前サーズの時に、今日のお話にも出てきた、デイヴィッド・タオと、アメリカ生まれの王力宏(ワン・リーホン)、と金曲の番組の責任者、陳鎮川が作詞で参加した曲「手牽手(Hand In Hand)」を、今年ノミネートされているアーティスト11人がリモートで歌っています。田馥甄呉青峰李泉韋禮安孫盛希蛋堡萬芳瘦子 E.SO譚維維蘇慧倫と台湾ポップスをお好きなかたなら、思わず豪華!と言うでしょう。その中で、え?知らない!と思ったかたもいたかと思います。李泉(リー・チュエン)です。彼は、上海音楽学院ピアノ科出身で、1995年に『上海夢』(レコード会社は台湾)でデビューしました。日本でも出ました。いかにも上海を思わす豪華なサウンドが印象的でしたが、なんと、今年のアルバム賞にノミネートされているので、私などはとても懐かしくなりました。こんな海外のアーティストも広く受け入れる、それが台湾の魅力ではないかと思います。